61年目の8月15日

ecochem2006-08-15

生きている者だけが今日という日を迎えられる。
2006/08/06に書いたように,新潟に原爆が落とされていたら私は生まれてこなかったかも知れないし,それ以前にも私の先祖たちは幾多の戦争や災害,病などを経験してきているであろうから,今こうやってキーボードを打っている自分というものは本当に不思議な存在だし,それは地球上のすべての生物についても言えることである。
先日読んだばかりの以下の本を今一度ざっと読み直してみた。
戦争の克服 (集英社新書)

上のアニメ画像は,“borders”表示のOn・Offが可能なGoogle Earthで作成したものであるが,描出されるのはあくまで現時点で想定されている“国境”の例であって,それに同意しない人も多いだろうし,現在は国境を越えて生活している人も多く,「国」と「国」の戦争というものもますます難しくなってきている(当事国だけでなく背後で関わっている国という存在も加味して)。それは,テロというものが必ずしも国という存在を必要とせずに(あるいはその内部で)成立し,そのために戦争終結や停戦の当事者の確定が困難になって終わりが見えないという不幸な時代の到来や,戦闘員と非戦闘員の区別がますます難しくなってきているという現実(p.101)など,泥濘の中の絡みに絡まった糸のようなやり切れない情況を再認識させてくれる。
また,保有国が増えそうな気配を見せている反地球的な核兵器にとどまらず,クラスター爆弾デイジーカッター(p.96),劣化ウラン弾などの圧倒的な“最新”兵器を使うアメリカという国(p.112にはイラクに対して侵略やテロを犯しているとする表現も)が今後どう振舞っていくのかと,日本始め他の国々がどういう関係を築いていくのかは極めて重要である。
そして,p.128の『先住権裁判の可能性』では,日本においてはアイヌと沖縄の問題があり,特に終戦前の沖縄の惨状と現在の基地問題はきちんと認識しておく必要があり,同書でも再三言及されている(アメリカで言えば,核兵器化学兵器などの製造・保管等で被害を受けているのは先住民が多い地域であるのはよく知られている)。
沖縄については以前から紅型に関心を持っていたが,

を見て,周囲の大国に翻弄される中で独特の文化を築いていた琉球王国のすばらしさとある意味では現在までにつながっているその悲劇(それと同時に失われた文化を再興しつつある力強さを感じるにしても)を見据える責務を感じるし,水俣病と同様現地を見ずに語れないのであるから,遠からず沖縄の地を踏んで歩き回りたいと思う。
「戦争の克服」にはそのための糸口がいくつか示されているが,中でも,『国際法』,『国際刑事裁判所』,『民衆法廷』,『世界社会フォーラム』といったキーワードは心に留めておきたい。なお,この中で『世界社会フォーラム』(p.223)についてあげられているスローガン『もうひとつの世界は可能だ』については以前読んだ以下の本が該当する。
もうひとつの世界は可能だ―世界社会フォーラムとグローバル化への民衆のオルタナティブ

最後に。「戦争の克服」p.73で鵜飼さんは,“私は兵役強制されずにすんだという一点で憲法感謝している”と書いてくれている。私も戦後生まれながら,戦争を扱った多くの書物を読み,今現在起こっている多くのテロを含めた戦争の映像を見て(隠されているであろう多くの映像にも思いを致し),私の親しい人たちを戦闘員やそれに限りなく近い非戦闘員の立場に追いやることがないよう,その力を持っている人たちすべてに切に要求したい。