『世界知』と『生活知』を糸口に

庇護されるべきこども達が想定していない様々な圧力を受け,おとなたちが連日のようにテレビの中で頭を下げたり居直ったりしている今という時代。ただでさえおとなの悪しき見本しかこども達に示しえていないように感じられる中,その社会を変えていく役割を担う教育の場で“単位偽装”などと称される問題が噴出して大きな騒動になっている。

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ここ数年,講義で理系の内容を話すと「習っていない」と学生によく言われ(中には中学で習っているはずのものがるのだけれど),本当に習っていないのか本人が忘れているだけなのかを一々確認はできない状態だったのが,本当に習っていない例が少なからずあったことが明白になっただけに過ぎないようなところもある。その習っていない分野がみな同じなら多少救いはあるのに,バラバラなのだから始末に悪い。小・中・高・大のそれぞれの段階で積み残しがあって社会という荒波に出ざるをえないということだろう。
理系科目に関して言えば,

に書いたように,北大の理系学部では新指導要領を受けてきた今春からの入学生については,“高校までの理科教育は「なかったもの」として考える。つまり、例えば大学生物の1年次教育において、高校までの生物の履修経験を問わないということが、まず第1にあります”という発想のもとにカリキュラムを刷新しており,そのことは,

でもとりまとめの苦労が語られている。
本学の場合,そのような対応はほとんどしていないし,私が所属する専攻の「生活科学」という分野はその扱うべき領域がなかなか定まらない面がある上に(学生も周囲に聞かれても答えなれないことを苦慮している),女子であるせいか理系科目が得意な層は少なく,入学してから2年という時間での個々人の力に応じたフォローは容易ではない。
ならば,文系科目で勝負すべく『科学技術と社会』という立脚点を頼りに,社会科を接点にしようと考えていたところに,今回の未履修問題が世界史から端を発したところがショックであった。ここ2年ほど,オープンキャンパスで世界史の参考書のチェルノブイリ事故の記事(科学の『負の遺産』に言及)を示して関心を引こうとしたりしていたからである。

新指導要領で頼りにしていた「情報」も3時間ほどやっただけであとは受験科目の勉強をしていたことをかなり前に1年生から聞いていたのだが,かなり広範に行われていたことも明白になった。
要するに何を教えるにも礎がないように感じられてしまうのである。さて,どうしたものやら。
『学ぶ』という営みは私自身にとって不断の課題であり,大学・Web・出版という場でその経過をより多くの人に伝えたいと考えている。
『学び』ということに人はそれぞれに異なった意味や目的を見出していて,それをどう取りまとめていくのかは至難の業であるのは確かだが,個人的には,
「脳」整理法 (ちくま新書)

に書かれている『世界知』と『生活知』というキーワードこそ,その糸口になるのではないかと最近強く思っている。『学ぶ』歓びをすでに知っている高校生たちが,今回のことがきっかけでそのことに疑念をいだかないように願っている。